最近になってやっと「絵」というものがどうやって成立していくのかという過程を大まかにですが捉えられるようになってきました。自分が今後絵描きを目指していく上で大変に重要な感覚ですので、忘れないようにしたいものです。
その感覚が何故二十歳になる現在まで身に付かなかったかというのは、やはり中学生くらいからアニメーターとかに憧れていて、サッと正解の線を引いていく天才アニメーター達の映像が脳裏にこびりついて離れなかったからでしょう。そのおかげで散々下手な絵を濫造してしまったものです。
絵を描くというのは、ラフ、下書き、ペン入れ。その後色塗り。単純な色分けから、影付けとか、様々な工程を行って初めて上質な絵が生まれるのだという事を痛感します。もちろん工程を省略しても上手く描けたり、省略したからこそ出てくる表現というのはあると思いますけれど、ある程度の品質保証を重要なものだとする場合、工程をしっかりと分割して作業を行うのは当たり前のようにやらなくてはならない事になってくると思います。
今敏さんのブログを読んでいて「最初の構図が悪ければいくら描き込んでも同じだ」という事を仰られていて、これは大変心に刺さる言葉だなと思いました。自分がやってきた事は結局のところ、骨組みの間違えたものを高層建築物にしようとする試みで、それを九龍城レベルでやればそれはそれでアート性が生まれる可能性は否めないですけれど、そこには絶対的な歪さを排除できないという欠陥が残る事を忘れてはいけませんね。
絵の勉強というのは高校時代からそこそこやってきたんですけど(特殊な高校だったんです)それはあまり即効性のあるものではなくて、自分がやってきた事の意味が理解できるようになるまで、卒業してから二年程必要になってしまいました。しかし高校時代にやったような物の見方とか描き方は、自分の絵の中に入れ込むと、ちゃんと情報として整理されたものになったりする訳ですね。しかし高校教育の問題点は理屈を説明せずに、まずは手を動かさせるんですよ。影を入れるとかハイライトを入れるとか、そういう事は言われるんだけど、何故ハイライトが生ずるかとか、何故影が生ずるかとか、それに一切の説明がない。だからそれは独学で埋め合わせるしかないんです。ですので、結局絵は独学でやれば良いんじゃないかと最近まで思っていたんですけど、しかしながら「理屈では覚えてなくても手が覚えている」という状態をつくりさえすれば、意外と後からでも理屈を拵えて補完できるのだと、そういう風に気づいた訳です。
ですので高校時代にやった事は無駄ではなかったのですが、学校を卒業してから絵を描かない日々が続いていましたし、自分の本質的部分は絵描きではなくて物書きとか作家だろうと思っているのですが、それでも絵を描かないことには自分のやりたい表現を完遂できないという気は散々していますので、漫画家を目指すみたいな感じで、漫画とイラストを描くことを日課に暫くはやっていきたいなと思いますね。そして作品が出来上がれば、その作品に導入した理屈などが整理されますので、その理屈をこのブログなんかで解説していく事で、ある種文章的コンテンツを生み出すという事も並行して行えたら幸いであると思います。
今回はただの雑記で、このブログの目的は「読み応えのある文化評論を現代に!」みたいなところにあるんですが、それを行うにはあまりにも自分のリソースが足りていない。ですので、最初の記事で書いたルールというのは言うなれば最終目標なのかもしれません。ですから最初の記事で設けたルールから大きく外れた記事を日々更新する事になりそうですが、結局作品を創作する中で僕のやりたい事というのは、理屈で説明の付きそうな所は理屈で評論的に解析していき、そうでない所は作品で示していくという事なのかも知れません。良い作品が自らの手で生まれた時に初めて、良い評論、良い分析の行えるリソースが蓄えられると信じて、日々の創作に取り掛かりたいと思います。
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